豊田徳治郎「碍の字を常用漢字に」に対する質問への回答へのメール

豊田さんはその日のうちに回答をくださいました。そこに何が書かれていたかは下記の私の返礼メールでお察しください。


豊田徳治郎 様

鈴見咲です。ある程度ご高齢であることはブログなどから存じておりましたので一ヶ月くらいは待つべきものかと思案していたところ、かのように早いお返事を頂いたこと、誠に驚き、感謝しております。

お尋ねは前回までにしてほしいとのことでしたので、このメールにおいては情報提供と意見表明にとどめております。安心してご覧ください。


質問順に参ります。布令字弁に関するお尋ねは、そもそも貴著「tokujirouの日記」を拝読してなお納得いかずに行ったものでした。別の言い方をすると、現状とうてい反対派を納得させることはできない論理建てだということです。

布令字弁に関して当方の知っていることをお伝えいたします。

布令字弁は初篇から七篇と増補布令字弁の合計八つがあり、筆者自ら不完全なものと自覚していたらしいとの説がございます。また、初篇から七篇の間にも大きな変化があったようで、大空社「明治期漢語辞書大系」一巻にもその七種全部を個別に収録するという異例の対応をとっております。

困ったことに、初篇が「いろは」二篇が「にほへと」…といった形ではなく、各版ともいろは順ですべての頭音を網羅し単品で完結するかのような形を取る一方、三篇の奥付時点で既には四五篇を続けて販売する旨が書かれております。

八種の一つ一つがそれぞれが完成した辞書とも言えるし、初篇~七篇までで一つの辞書とみることもできる不思議な辞書なわけです。

さて、このうち「障害」を載せていたのが、ご存知の通り三篇と増補の二つ。 増補まで含めた八種を一つの完成品と見るなら「碍の字を常用漢字に」の記述の通り二箇所に載せたと言えますが、個別の単品あるいは増補だけ別の扱いにした二つという立場も取れるので、そうしないのはなぜか、という説明を(無論根拠付きで)いただきたかったのです。

個別の単品という見方をすると『「障害」を載せていたのは初期七篇のうちの一冊だけだった』という言い方もできるわけで、こうなるとお上の意向を忖度というお話が総崩れになってしまいます。あるいは、政府と阿吽の呼吸でやっていたのは「増補」布令字弁だった、とおっしゃるのならギリギリ言い分は立つでしょうか。【2019-01-22注:次の一文は後で訂正しました】いかにベストセラーだったとしても各個人・各団体がそれぞれで初期七篇のすべてを揃えていた、というのはなかなか納得できるものではありません。ですが、増補だけは別途購入したというのなら筋は通ります。証拠云々はともかくとして。

そして、もう一点。布令字弁が「他の辞書を抑えて」ベストセラーだったことの説明が不足しています。前述の「明治期漢語辞書大系」は、実に三十一巻を費やし明治十年五月までの辞書七十二冊を復刻しています。

中には特定地方でしか売られていないとされるもの、研究自体が進んでいないものもありますが、布令字弁が他を圧倒するほどにベストセラーであったなら、わざわざそのように多くの辞書を「完全復刻」する意味もないと思うのです。明治期漢語辞書大系は、豊田さんご自身が紹介されているとおり中田雅博さんが参照していた本ですから、いい加減なものということでもないでしょう。

中田さんも大阪府立図書館で探したとお手紙にあったそうですから、私と中田さんは同じ本を見ていたのでしょうね。

中田さんからのお手紙にあったかどうかはわかりませんが、明治期漢語辞書大系は全六十四巻+別巻三巻。ひとり布令字弁だけが漢語ブームに乗っていたわけではないのです。ですから、布令字弁だけが突出していたとおっしゃるなら、それ相応の根拠がほしい。そういうお話です。なお、さきほど三十一巻(まで)で、と述べたのはそこから先の三十二巻~六十四巻をまだ私が読めていないからです。


布令字弁の話だけでずいぶん紙幅をとってしまいましたが、2つ目。

そうですね…とりあえず私の知る反対意見が見られる一覧を示しておきましょう。このうちご存知のものも多数あるはずですが、一昨年の一ノ瀬メイ発言などはいかがだったのでしょう?

また、今回豊田さんが『碍の字を常用漢字に』を発表したこと、および私への回答を見る限り、2010年11月22日の関口さんの反対意見が見事に的中、反対派の意見は慧眼だったことを証明する結果となっています。


3つ目、一概念一表記に関して、2018年11月4日に書かれた日記から参議院決議が衆議院決議と異なることはわかりますが、特に一概念一表記という思想があったという明記はないのですね…ということは、衆議院側の付帯決議は依然生きているということにもなるのではないでしょうか。

両院の委員会というのは次の二つだと思いますが:

それぞれで議員が附帯決議案を読み上げている時点で、この文言の違いが「ある」のですよね。だから、少なくとも見た目上、文部科学省は横槍を入れてない。ですから、参議院で附帯決議案を提出した議員のうちどなたかが、文科省か誰かから意見をつけられた旨を説明していただかない限り、一概念一表記の国策が元で変更させられたとは言えない状態にあります。

もう一点困ってしまうところがございまして、一概念一表記は漢字制限と親和性の高い考え方です。この点、基本的に漢字制限には賛成で、ただし「碍」だけ漢字制限の例外だとも主張できそうに思えるのですが、そうなると一概念一表記の例外に障害・障碍をおいたらどうなんだ、という反論もできてしまうのです。


4つ目、佐藤さんとは意見を異にしている旨、了解いたしました。ただ、『碍の字を常用漢字に』だけを読んだ場合そうは読み取れない点はご留意いただきたいと思います。


5つ目については後ほど。


6つ目。重箱の隅をほじくるような、とのご指摘恐れ入ります。

医学用語ではない、の段落で主張されたいことも理解しました。わざわざ医学界がウ冠の障害を新造したのではなく、布令字弁がそれしか載せなかったから医学でもウ冠の障害を使う例があってもおかしくない、ということなのですね。

ただ若干の疑問は残ります。例えば「身体的障碍のある者」という言葉は、「身体的障碍」+「の」+「ある者」という作りであって、「身体的」+「障碍のある者」ではないはずです。

すると、「のある者」が続くか否かでヒトに対して使ったか否かの議論をするのにどういう意味があるのか?という話になってしまいます。

○○(的)障碍と○○(的)障害は比較的大雑把に使われていたが、「のある者」と続けるときだけは慎重になっていた、とは俄に信じがたいのです。

――実のところ、ある時期以降なら「○○(的)」+「障害」+「のある者」という語構造だと主張できる可能性はあります。具体的には、知的障害と精神障害の両単語が世間一般に広く使われるようになってから、です。

それがどういう意味を持つのか、もしかしたらお気づきかもしれません。ただ可能性の範疇にしかないので現時点では私も断言は避けておきます。


7つ目、多摩市の件、了解いたしました。 多摩市のウェブサイトよりももう少し早い時期を確認できる資料があるそうですのでご存知かもしれませんがお知らせいたします(それでも2000年12月ですが)。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000117824

『…読売新聞では2000年2月3日の福祉施設への車両の贈呈についての記事で、「障がい者自立生活支援センター」への贈呈についてふれているのが初出。また同年12月には東京都多摩市が「『害』の文字は不快感を与え、誤解を招く恐れがある」との理由から、公文書の表記を「障がい者」に統一すると決定したことを報じている。…』


8つ目の件はちょっと残念です。多摩市のことを記録するのはよいとしても、それを民間の意見が起点とするものではないように取られる書き方はいただけないと考えます。


9件目、なるほど、経典のある家ならどこにでもということですね。経典以外の書物にも頻繁に使用されているとのこと、これは情報としてまとめて世に出されるとぐんと信用が上がると思います。どうにも明治初期の辞書類を見ていると本当に「障碍」という語は広く使われていたのか?と疑ってしまいますので…


10件目、当方の質問のような意図はないこと安心いたしました。

ですが、現状例えばコンピュータを使った検索においても障害・障碍・障がいの各種表記は可換的に利用可能であり、どの語を利用するにしても現状必要とされるのは他者の利用方法に対する寛容の心意気だけとなっております。

そのような中で、常用漢字への採用に留まらず、選択の余地をなくそうという本文になっていれば、当然にかような批判もありうることはお含みおきいただきたく存じます。


11件目、決してそういうことはないと断言いただきたかった。

こちらもやはり、豊田さんの意図に関係なく、「碍の字を常用漢字に」の表現がそういう文章になっているのです。


12件目、芦屋の名士に汚点を持ってほしくないという思いからのお尋ねでありました…


先送りにした5件目と合わせて。

概して言えば、ご主張の二本柱であるところの布令字弁周辺と一概念一表記、この両方の足元に不安が大きいというのが一点。

そして、論理立てて説明するよりも、多数派の力で押し切ろうとしていることがもう一点。

これが大きな問題ではないかと存じます。後者は倫理的にも。

障碍者は現在に至っても、そうでない方々と比べて少数派の苦しい立場にいる方がほとんどではありましょう。そのような少数派の苦しさを知っているはずの関係者が、自らの中に含まれる別の少数派を、力で押し切ろうとしているのが無念なのです。

多数決は民主主義の要なのではなくて、苦渋の最終手段です。多数決が救済しやすいのは、当たり前ですが多数派の人たちです。それは人類全体の進歩に大きく寄与しましたが、障碍者に限らず少数派の人たちを置き去りにする結果を作っています。

そんなこと、私に言われるまでもなく、ご存知のはずです。

もちろん、何を言っても納得しない少数派というのもありましょう。ただ、それを承知で多数派の意見を通す、筋の通った方法は、多数決の力で押し通すのではなく、話の流れをきちんと立てることのはず。

豊田さんの関わる団体の、障碍者に対する接し方とはどのようなものでしょう。現場の急迫した事情でやむを得ず、という事例も多々あるかもしれませんが、しかし目指すところは障碍者本人もきちんと納得して、というものだと思います。

ですが、「碍の字を常用漢字に」を拝読していると、あの社会的多数派の、黙って言うことを聞け、という態度を思い出します。

『本件をマクロの視点から見ると今や9割以上の人々が』 『残った有力な代替表記が…本当は四番目に「その他」を加える必要があるでしょう。議論を簡略化するために現実的な3表記のみを書きましたが』

このような言葉をぶつけられた少数派がどのように思うか、今一度立ち止まって考えていただき、どうか、どうか、後代に遺恨を残さぬよう名士としての活動に期待したく存じます。

長くなりました。
もしここまでお読みになったのなら、またそうでなくともお年を召したお体に負担をかけてしまったことでしょう。その点、心よりお詫び申し上げます。ただ、事が豊田様一人の話ではなくなる内容であること、また研究家を名乗られてしまったことがその宿命を背負う因果の結果であったことに免じていただきたく存じます。

人生100年時代と申します。まだまだご健康のままで多くの方を導く英雄たることを祈念しております。この度はありがとうございました。


※2019-01-20に下記修正情報を送りました。

豊田徳治郎 様

鈴見咲です。先にお送りした2通目のメールの布令字弁についてですが、初篇から五編まで、六篇まで、七篇までの三種の合本は存在していたようです。従って先に述べた、ベストセラーといえども初篇から七篇までを多くの方が揃えたかどうかの可能性は充分にあった、と訂正いたします。出典は同じく「明治期漢語辞書大系」1巻383頁です。

なお、同頁で『合冊は当然利用しにくく、改編が期待される。その結果、改変されたものが「増補布令字弁」である。』との説明があり、増補と七篇までとは基本的に別扱いというのは間違いないようです。

取り急ぎ。

(2019-01-22追記)